「この人と仲良くなっておけば」
「この人から嫌われないように」
このような感じでひと付き合いしていると、
本当に困ったときに話せるひとがいかったり、
何より、くたびれますね。
「よい人、嫌われない人」として
他人と接するのは、とても消耗するし、
聞いていてもコミュニケーションが不自然になります。
媚を売る必要なんて、ないんですよね。
ほんとうは。
でも、「よい人、嫌われない人」でいたいと思うと、
過剰に、相手のご機嫌取りをするような口調になったり、
声のトーンまで、気にしてお話していたり。
それは、疲れます。
それに、たのしい仲間。
ほんとうに頼れる仲間は
つくれませんね。
お互いに。
それでは、たのしい仲間はどうしたら作れるでしょうか?
しかも、くたびれずに。
パターン化した行動。
人がたくさんの経験、成長していく中で、
「こうあらねばならない」「こうせねば」という
固定観念もできあがっていきます。
次に新しく何かを経験するときには、
その固定観念のフィルターをかけて行動します。
なので、考えなくても
同じパターンで反応的に行動する。
これはいつもの、このパターンで行動しよう。
たとえば、わたしなら「医者たるはこうあるべき」という
暗黙の了解、固定観念が
かなりある世界です。
その中で、安心安全に生きるためには、
みんなと同じような行動をしているほうがいいのです。
” はみ出ない "ほうがいいのです。
人付き合いも同で、
同じような固定概念をもった人たちと
つるんでいるのは、
安心安全な気がするものです。
それがたとえ、
心地よいもの
安心できるもの
たのしいものでなくても。
生きてくには、安心安全なほうがいいと思うのは
当然ですものね。
でも。
それで何か違和感がある。
どうも、そこに自分が当てはまらない。
こころから付き合いと思える仲間もいない。
そうなった場合は、
パターン化した行動をしていたのでは、
そこから抜け出すことはできません。
具体的にどうするか?
それは、
相手をみて、ひと付き合いをしないことです。
え!?!?
相手をみないで、自分の素を出すほうが先。
もちろん、
「このひとは関わりたくない」というひとには
最初からなるべく、近づかないのは大前提です。
” 損得勘定 "でいたら、
関わりたくないひとにも果敢に関わろうと、
がんばっているひともいますが、
たのしい仲間をつくることには、
少なくともなりませんね。
自分の素をまず、出していく。
素を出すというと、
まるで「気心の知れた家族と接するように、馴れ馴れしく?」と
イメージされがちですが、
素を出すのは、本音を出すということです。
素の出し方は、慣れです。
出さないと、慣れません。
最初は、唐突な感じにもなるかもしれません。
出していくうちに、出し方も自然になります。
素の自分をみて
相手が、自分と関わっていこうと思うかどうか?は
判断すればいいのです。
これまでとは順序が逆ですね。
これまでは
これまでは
「この人は私に合うかな?」
「私と友達になってくれるのかな?」
「どんな話をしたら喜ぶのかな?」
そういう風に、相手をうかがいながら
コミュニケーションをし、
相手と関わるか(相手が関わってくれるのか)、
自分が選ぶというか、判断していました。
なので、「自分の素を先に出して関わるかどうか?結果は相手が判断」って
少し怖いです。
ですが、” 素の自分 " をみて、
相手が「仲良くできそうか判断」してくれるので、
仲良くできなさそうなら、立ち去るだろうし、
仲良くできそうなら、本当に仲良くなれます。
そして、そこには無理がないので、
そうやって仲良くなった人とは
居心地もよく、
消耗することもなく、いられます。
最初から素なので、
「最初から知り合いだった」ようなのですね。
言いたいことを言ってる自分に
興味を持ってくれたのですから、
以前の人付き合いとは、
前提が違ってきます。
そういう仲間が一人でもできると、
それはとても豊かだと思います。
断られ力をつけること。
自分から、「この人と仲良くしたい」と思ったときには、
” 断られ力 " をつけておくといいですね。
仲良くしたいと思っても、
素でいいのです。
素でいって、ダメだったとしても、
「わたしって、ダメね」と自己嫌悪になりませんように。
「ご縁がなかったのね」とサラリと流しましょう。
たくさん、大勢、ひとがいますから。
” 断られ力 "をつけておくと、
相手に受入れられなくても、
相手も自分も責めずに済むのです。
まとめると
たのしい仲間は、
” 大勢いないといけない " のではなく、
素の自分で付き合えるひとが一人でもいれば、
立派なたのしい仲間です。
大勢の、気を遣う仲間より、
一人の気心知れた仲間のほうが
わたしは大事だと思います。