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女医とも子の診察室

内科医。日々の気づき、生きること。自分の人生に取り組もう。

自分で問いを立てられることの重要性。

私は、子どもたちに

 

「ドリルを繰り返しやるのではなく、

 

自分で問いを立てなさい」と

 

常に言っています。

 

 

 

答えがすでにある問題を

 

いくら解いたとしても、

 

解き方がすでにわかっていたら

 

それはもう、繰り返し学ぶことに

 

そんなに意味があるのかどうか、

 

わかりません。

 

 

私も、浪人して大学受験をしました。

 

答えがすでにある問題を解いていくのが

 

大学受験。

 

それに向けて、中学、高校と学び続けるうちに、

 

「自分でゼロから問いを立てる」という

 

体験がものすごくなくなるのです。

 

 

 

そうすると、

 

答えがない問題に出会ったときに、

 

すぐさま、誰か他人に意見を確認したくなるのです。

 

 

 

大人なのに、

 

自分で自分のことすら考えられない。

 

自分のことすら、他人に聞きたい。

 

自分の生活すら、自分で決められない。

 

 

 

おかしいと思いませんか?

 

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外来でも、こんな場面が。

 


例えば、わたしの外来に患者さんが風邪で来たとき。

 

風邪をひく時点で免疫が下がっているので、

 

わたしは生活指導を必ずします。

 

薬は出さないでおきたいのですが、

 

希望があれば、出します。

 

「風邪ひいたら、とりあえず病院」という考え方も、

 

わたしは、あまり好きではありません。

 

 

 

「どうして、わたしは風邪をひいたかな?」

 

自分で問いを立てるのです。

 

何か、無理をしたかしら?

 

何か、嫌なことがあったかしら?

 

何か、無謀に飲食をしたかしら?

 

何か、慢性的に、我慢を強いていないかしら?

 

 

 

そうやって、問いを立てるのです。

 

 

ですが、それをする人は

 

病院に来るひとの中にはほぼ、見受けられません。

 

ですから、わたしは

 

自分のことを、自分で治める習慣を付けてもらうべく、

 

生活指導するのです。

 

 

 

そのときに。

 

「風邪なので、温かくして、食べ過ぎずに、静かに寝ていてください」と言うと、

 

「先生、仕事は行ってもいいですか?」とか、

 

聞くのです。

 

わたしは、そういうとき、

 

とても残念な気持ちと、疲労感に襲われます。

 

 

 

 

これまで話してきた、説明してきたことから、

 

「仕事に行っていいかどうか?」くらい

 

自分で考えて、自分で判断して、行動しろよ!!!と。

 

それくらいのことすら、

 

自分で問いも立てられなければ、決めることもできない。

 

 

 

まるで、小学一年生が

 

「先生、トイレに行ってもいいですか?」と質問してるのと

 

同じレベルだと、わたしは思います。

 

イヤになります。

 

 

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問いを立てる訓練をするために。

 

 

そういうわたしも、

 

自分で自分の訓練をしています。

 

 

 

例えば、これはどうなんだろう?と考えたとき、

 

知識が豊富な知人がいるのですが、

 

以前は、安易にバカな質問をしていました。

 

不安だから、その知人に聞けば安心だ、と。

 

自分が間違えてはいないのだ、と確認をするために。

 

 

 

ですが、わたしはそれは

 

とても恥ずかしいことだと、気がつきました。

 

そして、その知人の時間とエネルギーを奪ってるんだ、とも。

 

ですから、知人にすぐに質問をすることを、

 

辞めたのです。

 

 

 

 

私のことは、自分で決める。

 

書くと当たり前だろ!!って感じですが、

 

でも、自分のことを、他人に確認したがるひとは

 

大勢いるのを知っています。

 

 

 

 

決めてやってみて、違っていたら、また、考える。

 

問いを立て直す。

 

そうやって、経験をしていくだけで、

 

段々と、問いも立てやすくなるものです。

 

そして、思うような結果を伴わない行動だったとしても、

 

納得がいくし、

 

責任が持てるので、張り切って行動ができます。

 

 

 

ですから、

 

まずは、他人に安易に意見を求めない。

 

他人と比較しない。

 

自分だけの問いに、自分で答えを見つけていく。

 

その結果は、他人から評価をしてもらう必要すらない。

 

 

 

どうしてなんだろう?という

 

問いを立てることは、

 

幾つになっても、とても大切なことだと思います。

 

 

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他人に対して、問いを立てる。

 

自分のことが分かってきて、

 

自分のことで、問いが立てられるようになってきたら、

 

今度はそれを、人間関係でも使えるようになります。

 

 

 

他人のことは、分かりません。

 

分かる、ということは、永遠にないと思います。

 

 

ですが、

 

人と関わるからには、

 

相手を知りたい、と思う気持ちが大切です。

 

 

 

そのときに、

 

相手に対して、

 

「適切な問いを立てられる」ことは、

 

非常に大事なことになってきます。

 

 

分かり合えないというのは、

 

結局、相手に対して、適切な問いを立てられないから、

 

相手の思っていること、

 

相手がしていること、

 

その理由がまったくわからない、

 

そういう風にもなるのです。

 

 

 

相手に対して、

 

「問いを立てることすら、めんどうだ」などという

 

怠惰な人とは、

 

まったくもって、

 

関わる必要すらありませんね。

 

良い人は、大勢いるのですから。

 

 

 

人間関係を維持するのは、

 

とても努力がいるし、

 

疲れるものでもあるのです。

 

誰とでも、仲良くする必要ありません。

 

 

 

仕事においても、

 

顧客が何を欲しているのか?は

 

顧客に対して、正しく問いを立てられたら、

 

答えは自然と導かれ、

 

それを提供すれば、

 

モノは、売れるのです。

 

 

 

患者さんと向き合うときに、

 

毎度、毎度、同じ決まり文句で

 

問診をする医者は

 

どうなのでしょうか?

 

 

相手の生活状況、

 

相手が何に優先順位を高く置いているのか?

 

相手の性格、

 

相手の家族環境、

 

相手の仕事、

 

すべてのことを、頭にいれた上で、

 

相手によって、変化をつけて

 

問診をしていかなければなりません。

 

 

 

そうでなければ、

 

まるで、とんちんかんな検査が行われ、

 

とんちんかんな薬が処方され、

 

結局、何の解決にもならずに、

 

診療は終わるのです。

 

 

 

 

それでも、

 

問いが立てられない患者さんは、

 

とりあえず、いろんな検査をしてもらい、

 

先生が大丈夫だ、と言うから、

 

先生が薬を出してくれたから、

 

もう、大丈夫だ、と信じて、

 

帰っていくのです。

 

 

 

 

問いが立てられないというのは、

 

誠に困ったことなのです。

 

 

 

まとめると。

 

 

大人になるというのは、

 

仕事をして、稼いで、誰かを養っていればいいのではありません。

 

生きているというのは、

 

成長があるはずなのです。

 

 

 

 

問いを立てようとしているひとなのか?

 

 

 

そんなことすら考えずに、

 

ただ、ただ、

 

ことあるごとに、

 

誰かに、他人に、親に、

 

それを確認したり、

 

意見を求めて、

 

それで安心してしまうのか?

 

 

 

それは大きな違いであり、

 

自分というものを形成するのに、

 

本来の自分になれるのか、

 

誰かのコピーを量産されるうちの一人に成り下がるのか、

 

大きな分かれ目だと

 

今日は外来で感じたのです。

 

 

わたしは、

 

まだまだ、知らないことがたくさんあり、

 

まだまだ、恥ずかしいことを平気でしているかもしれないけれど、

 

問いを立て続けてやるぞ!、という

 

強い気持ちだけは

 

忘れずにいたいと思います。

 

恥ずかしい大人はイヤですから。

 

 

コンサル生さん、あと1名募集中です。

 

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